父は私が小学校3年生のとき、交通事故に遭い、脳が外に出るという瀕死の重傷を負いました。療養後、父は『一生懸命』に勉強し自動車整備士の資格を取得、整備士の仕事に就きました。家計が苦しかったので両親はとにかく必死、早朝から夜遅くまで『一生懸命』に働いていました。その父はもう他界していますが『一生懸命』という言葉が本当に背中から伝わってくる人でした。
私はその背中を見て育ちましたので『一生懸命』を引き継いでいるのだと思います。頭脳はダメダメでしたが努力はしました。そのおかげで工業高校の電気科へ進学し、東北電力へも就職できました。この45年間、電気に精通できたのも両親のおかげだと思っています。そんな45年間には大きな転機が2度ありました。
1度目は『妻の死』。私が40代前半でのことです。単身赴任で秋田市に勤務しているとき、妻は私に心配をかけまいと体の不調を見せず、我慢していました。あるとき、それも限界に。癌におかされていました。宣告されてから1年半後に旅立ってしまいました。この期間、妻は、娘と私のために『一生懸命』に病魔と闘ってくれました。妻が亡くなった時、ポッカリ穴が、ではなく、悲しみにのみこまれるという感じでしょうか。そのときに支えてくれたのは娘です。今生きていられるのは娘の存在だったと思います。
2度目は『脳梗塞』。東日本大震災の年、10月でした。4ヶ月の入院と1ヶ月の療養、長期間にわたり休職しました。このときの気持ちは、これからの体に対する不安と仕事ができるのかという不安で潰れそうでした。そんなとき前向きにしてくれたのは、医療関係の方々、見舞いにきてくれた同僚や友達、もちろん家族。その励ましに救われ、『一生懸命』にリハビリし、仕事に復帰しました。
大病から12年くらいが経ち、60歳で定年退職することができたのは、周りの方々の支えがあり、そのおかげで『一生懸命』仕事に取り組むことができたことだと思います。周りに助けられ、支えられてきた人生、これからは行政書士としての業務を通じ『一生懸命』周りにお返しすることだと思っております。体が動く限り、頑張っていきますのでよろしくお願いいたします。これが後に良い意味での3度目の転機となれば、と。